神戸市外国語大学学長木村榮一

神戸市外国語大学学長
木村榮一

風はいろいろなものを運んでくる。その中には鳥のさえずりもあれば、町のざわめきや切れ切れのかすかな言葉もあるだろうが、あまり重要なものは含まれていない。《風の便り》もそうした意図の下に、自分の読んだ本や好きな本を紹介してゆこうと考えて、書くことにした。パートIIとしたのは、以前に似たようなものを書いたことがあるので、そうしたまでで、他意はない。

アルゼンチンの作家ホルへ・ルイス・ボルヘスは本について面白いことを言っています。「書物は人間の作り出したさまざまな道具類の中でももっとも驚くべきものである。他の道具はいずれも人間の体の一部が拡大延長されたものでしかない。たとえば、望遠鏡や顕微鏡、これらは人間の眼が拡大されたものだし、電話は声が、鋤や剣は腕が延長されたものである。それに比べると、書物は記憶と想像力が拡大延長されたものであるという点で、他のものとはまったく性格を異にしている。ショーの『シーザーとクレオパトラ』の中に、アレクサンドリアの図書館は人類の記憶であるという一節が見えるが、これが書物なのである。書物はそれだけにとどまらず、想像力でもある。我々の過去は一連の夢でしかなく、夢を思い出すことは過去を思い出すことに他ならない。そして、これが書物の果たす役割なのである。」(ホルへ・ルイス・ボルヘス『ボルヘス、オラル』水声社)

いかにも書物の人ボルヘスらしい言葉ですが、彼がこういった平易な文章を書いたのは晩年のことで、それまでは手に負えないほど難解な短編やエッセイを書いていました。ただ、若い学生で、人が難しいというと、よし、それなら僕が、私が、という人もおられるでしょうから、そういう人はぜひボルヘスの短編集に挑戦されることをお勧めします。最初に読むのは、岩波文庫に入っている『伝奇集』がいいでしょう。この人の短編はむずかしいせいもあるのですが、うれしいことに再読、再々読ができる稀有な本なので、お勧めです。

お勧めといえば、現在文庫化されている小川洋子の小説『博士の愛した数式』(新潮文庫)も必読の書です。映画化されたようですが、映画を見る前にぜひ文庫でお読みください。よく<やさしさ>とは何かについてあれやこれや言われますが、そういうことは所詮机上の議論でしかありませんから、そういうのが好きな人に任せておいて、まずは作品を読んでください。人と人の結びつき、本当の意味での人間のやさしさ、それに数字の持つ魅力を通して、抽象的思考の美しさを感じ取れると思います。やさしさ、思いやりとは想像力であるといわれますが、この一作をお読みになれば、それが感覚として分かっていただけると思います。

『博士の愛した数式』がちょっぴりレモン味と苦味の効いた清涼飲料水だとすれば、古川日出男の『アラビアの夜の種族』(角川書店)は、強いアルコール飲料のように読者を陶酔させます。

舞台はエジプト、時代はナポレオン軍の侵攻のとき。奴隷でありながら、高度に訓練された軍人集団の中でも飛びぬけた力量と才知の持ち主アイユーブは、主人のイスマーイール・ベイ;知事から近代的な装備を備えた強力なナポレオン軍とどう戦えばいいかと相談され、今戦って勝てる望みは万に一つもありません。もしあるとすれば、それは読むものの心を惑わせ、うつけさせてしまう書物をフランス語に訳して、フランク族の人間、とりわけナポレオンその人に読ませることです。そのために『わざわい;災厄の書』と呼ばれる本を探し出して、所在を確認し、それをフランス語に訳すしかありませんが、そのための手筈は整えてあります、と答える。それを聞いてイスマーイール・ベイは、では、早速実行に移すようにと指示する。しかし、実を言うとアイユーブの言う『災厄の書』などは存在しない。彼は、ズームルッドと呼ばれる物語り師のもとへ行き、口承の物語を語るように、また翻訳家をつけて、それをフランス語に訳していくように命じる。かくして、ここから二重の物語がはじまる。すなわち、ナポレオンの侵攻によって揺れ動くエジプトとズームルッドの語る『もっとも忌まわしい妖術師アーダムと蛇のジンニーアのちぎり;契約の物語』あるいは『美しい二人の拾い子ファラーとサフィアーンの物語』が。

この二つの物語が交互に展開していくのですが、一方はナポレオン軍による攻撃で崩壊していくエジプトが、もう一方は気の遠くなるほど長い時間の中で繰り広げられる魔術、妖術に彩られた幻想的で怪異な物語です。このように物語の中にべつの物語があるという入れ子構造というのは、『千一夜物語』はもちろんのこと、ゴシック小説やそのほかの幻想的な物語でしばしば用いられる手法ですが、日本の現代作家がこのような手の込んだ手法を自在に使いこなしているというのは驚くべきことで、日本の文学も変わりつつあるなと実感されます。ともあれ、『妖術師アーダム・・・・・・』と『美しい二人の拾い子・・・・・・』の物語はすさまじいまでの迫力で読者を物語の中に引き込んでいきます。とりわけ、ファラーとサフィアーンの物語が面白くて、後半はもう途中でやめられなくなります。

当代最高の魔術師サフィアーン、霊験を手にばったばったと敵を切り倒すファラー、ファラーが恋に落ちるドゥドゥ姫、妖術師アーダム、蛇神ジンニーア、彼らが活躍する物語を読んでいるうちに、僕は騎士道物語を思い出しました。十六世紀スペインの優れた詩人で神秘主義者のサン・フアン・デ・ラ・クルスが、騎士道物語にはまってそればかり読んでいたので、上の人から叱責されたという話が伝わっていますが、古川日出男の『アラビアの夜の種族』は現代版騎士道物語といっても過言ではない作品で、これに読みふけって授業の準備がおろそかにならないようくれぐれも気をつけてください。

今回最後のお勧め本は柴田元幸の『バレンタイン』(新書館)です。英米文学の翻訳家として、また楽しい翻訳論の著者としてつとにその名を知られていて、多少とも翻訳文学に親しんでいる人で、その名を知らなければ、これはもうもぐりといわれても仕方ありません。村上春樹・柴田元幸著の『翻訳夜話』、『翻訳夜話2サリンジャー戦記』(文春新書)、それに新しく出た柴田元幸著の『翻訳教室』(新書館)、これらについてはいずれ取り上げます。今回は翻訳家として名高い柴田元幸がはじめて出した短編集『バレンタイン』を紹介しましょう。ここに収められた十四篇の短編はいずれもごくありふれた日常的な世界を描いているのですが、読む進むうちにその世界が現実から微妙なずれを起こし、そこから生じる亀裂が主人公を非現実的で不気味な世界へと引き込んでいきます。名訳者としてつとにその名を知られる柴田元幸ならではの流麗な文体で語られた短編は読むものを魅了せずにはおきません。