神戸市外国語大学学長木村榮一

神戸市外国語大学学長
木村榮一

前回国民文学の話をしたのに、山周,こと山本周五郎に触れなかったことに気づいて、ああ、かなり物忘れがひどくなったな、とわれながらショックを受けました。それはともかく、本屋さんへ行くと、新潮文庫に収められた山本周五郎の本が五十冊以上並んでいます。山周の本を読んだことのない人なら、その数に圧倒されて、どれから読んでいいか分からず本棚の前で呆然となるでしょうね。この人の作品はまず短編集、そうですね、『松風の門』、『人情裏長屋』、『朝顔草紙』、『花杖記』、『月の松山』、『人情武士道』、『怒らぬ慶之助』あたりから読みはじめてみたらどうでしょう。どこかおおらかでユーモラスな物語、あるいは凄絶悲惨な物語を通して、心に染み入るような人の優しさや本当の人情、あるいは昨今かまびすしい武士道精神などがじつ鮮明かつ美しく描き出されています。どれかお読みになって、これは肌が合いそうだと感じたら、『樅の木は残った』、『ながい坂』などの長編に挑戦してみられるといいでしょう。僕自身、藤沢周平さんの作品にはまったとき、読み進むにつれて読み残した作品がだんだん少なくなっていきますが、それが寂しくて、わざと途中でべつの作家のものを読んだりしたのですが、山本周五郎の場合もそうでしたね。この作家のものはぜひ上にあげたものなら何でもいいですから、一冊だけでもお読みください。きっと深い感銘を受けますよ。

時代小説の話ばかりになりましたので、少し話題を変えましょう。あるフランスの批評家が面白いことを言っているので、それを紹介しましょう。その批評家は、本が好きで読んで楽しむ人は普通の読者、つまりレクトゥールというんですが、小説の方が現実世界以上に現実的に思え、そちらのほうが大切だと考える読者もいて、そういう状態におちいった読者のことをリズールと呼ぶそうです。アランというこれもフランスの批評家はスタンダールの作品が好きで、生涯に何十回もスタンダールの作品を読み返したそうです。こういう人をリズールと呼ぶそうですが、こうなるともう小説を読むのではなく、小説を生きる、といってもいいでしょうね。ただ、そこまで惚れ込める作家となると、中々見つからないでしょうね。

そういう作家を見つけるための面白い方法がひとつあります。これは語学の勉強にもなりますし、同時に小説、あるいは短編を細かく丁寧に読むことにもなるので、リズール経験ができるかもしれません。つまり、何か面白そうな本を探して、翻訳してみるのです。訳本を出そうなどとセコイことを考えてはいけません。何しろリズール体験をするためですからね。実際にやってみると分かりますが、手間と暇がかかって中々大変な作業ですが、それだけのことはあります。

しかし、山登りをしようと思ったらそれなりの装備が必要なように、まずはテキストと辞書が要ります。それだけでは無論だめで、地図や入門書を手に入れなければなりません。何を訳せばいいかという地図に当たる問題は先生に相談してみるのもひとつの方法ですが、一番いいのはお気にいりの作家を見つけることで、それがもっともいい地図になるでしょう。さて、次は入門書です。これは幸い、柴田元幸著の『翻訳教室』(新書館)という優れものがありますので、ぜひお読みください。大学での授業を本にしたものですが、臨場感あふれるとても面白い本です。ただ、テキストが英語なので、それ以外の言語を学びたい人はもっと一般的なものをといわれるかもしれません。

そのときは、村上春樹・柴田元幸の『翻訳夜話』、『翻訳夜話パートIIサリンジャー戦記』(いずれも中公新書)をひもといてみてください。いやしくも多少翻訳について語るのなら、これだけは読んでおいてくださいよというべき基本中の基本となる学生を交えた実に楽しい対談ですし、翻訳だけでなく文学一般、とりわけ小説についていろいろなことが学べるはずです。この中には、なるほどと感心したり、ああ、そういうことなのかと目からうろこが落ちる思いがしたり、うーん、と考えさせられたり、と読者、とりわけ翻訳に多少とも関心のある人を触発し、駆り立てる言葉が次々に出てきます。以下、その中から興味深い一節をいくつか引いて見ましょう。

村上

テキストやその作家との間に共感状態みたいなのが生まれると、すごくいいんですよね。だから、翻訳をやりたいという人に僕がいつも言っているのは、とにかく自分の好きな作家と好きなテキストを見つけて、一生懸命それをやったらどうですかということです。

村上さんも言っているように、何よりもまず自分と肌の合うお気に入りの作家、作品を見つけることなんですね。次の一節は翻訳の文体のことを言っているんですが、実を言うと少しパラフレーズすれば、どんなことにも通用する大変大事な心得です。

村上

文体ということで言うと、これはすごく漠然とした表現になるんですけど、いわゆる「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というやつで、翻訳をする場合、とにかく自分というものを捨てて訳すわけですよ。ところが、自分というのはどうしたって捨てられないんです。だから徹底的に捨てようと覆って、それでなおかつ残っているくらいが、文体としてはちょうどいい感じになるんだね・・・・・・。

翻訳で自己表現しようというふうに思ってやっている人がいれば、それは僕は間違いだと思う。結果的に自己表現になるかもしれないけれど、翻訳というのは自己表現じゃないですよ。自己表現をやりたいなら小説を書けばいいと思う・・・・・・。

僕は小説家で、日本語で小説を書くことを本職にしていますが、日本語の小説を書くように翻訳するなんてことはできっこないです。とにかくそういう考えは全部捨てて・・・・・・原作者の心の動きを、息をひそめてただじっと追うしかないです。もっと極端に言えば、翻訳とはエゴみたいなのを捨てることだと、僕は思うんです。うまくエゴが捨てられると、忠実でありながら、しかも官僚的にはならない自然な翻訳が結果的にできるはずだと思います。

村上さんはまた翻訳の文体に必要なものとしてリズムを挙げていますが、若いころジャズの仕事をしていたこともあって、自分の身体に染み付いたものとしてビートを挙げ、さらに「うねり」という比喩を用いて説明しています。そのあと「ただ、このうねりばかりは身体で覚えるしかないですね。いっぱい文章を書いて、身体で覚えるしかない」と続けています。とにかくいっぱい書いて、いっぱい訳すと、少しずつ身についてくるものなんでしょうね。最後に村上さんと柴田さんの言葉を引いておきましょう。

村上

・・・・・・エーと、翻訳は愛だといったのは柴田さんでしたっけ?

柴田

そうです。

柴田さんはこの本の中ではあまりしゃべっていないんですが、それでも時々挟む言葉の端々に謙虚な人柄や翻訳に対する強い思い入れがこめられているのが分かります。