わずか一年足らずという短い期間でしたが、ぼくは成金のお坊ちゃまとして暮らした経験があります。もっとも小学校へ上がったばかりのほんの短い期間だったので、ほとんど記憶に残っていないのが残念なのですが、当時の写真を見ると、なんと心斎橋の洋服店であつらえたツイードのスーツを着て(1951年、昭和26年ごろのことですから、これは大変なことです)、スケーターに乗っているんですね。あの時代とふだんの我が家の暮らしぶりを考えるととんでもない贅沢でした。
つかの間とはいえどうして大金持ちのボンボンの生活が送れたのか。そこには面白いエピソードがあります。当時父は仕事がなくて困っていたのですが、1950年ジェーン台風がやってきて、近畿を中心に大きな被害が出ました。この台風で12万戸以上の家屋が倒壊、もしくは半倒壊になったというのですから、すさまじいものだったようです。台風が通り過ぎた後、父は荒廃した町中を歩いていたんですが、あちこちで新築の家が建てられているんですね。なるほどそうか、これからは建売の時代なんだと感じた父は、木工の技術はあったものの建築はからっきしだったので、毎日よその建築現場に通い、目で覚えたそうです。とにかく目で見て、ああ、建物の基礎はああして、水平はあんなふうにしてとるのか、柱は、屋根はといったように、毎日毎日通って覚えこんだそうです。
その後、多少技術のある人を集めて建売をはじめたら、これが大当たり。とにかくもうかったそうで、兄の話だと自転車の荷台に札束を積んで帰ったとか、洋服ダンスを開けると札束が転がり落ちてきたといった話をよく聞かされました。しかし、栄耀栄華ははかないもので、翌年にはすってんてんになったそうです。ひとつは税金対策をしていなかったこと、もうひとつはだんだんと売れ残りが出てきて、利益が飛んでしまったそうです。かくして、我が家はもとの貧乏暮らしに戻ったのですが、父はめげない人でその後も次々色々なことに手を出しながら、なんとか暮らしを立てていたようです。その頃父が口癖のように言っていた西郷隆盛の遺訓というのを紹介しておきましょう。
子孫に美田を残すも子孫これを保たず
子孫に書を残すも子孫これを読まず
陰徳を積むにしかず
「学ぶ」という言葉の語源は「まねぶ」だそうで、つまりはまねをすることからはじまるわけですが、「学ぶ」ためには何よりも「見る」ことが大切だということが分かりますし、そう考えれば師の謦咳(けいがい)に接し、師の真似をするということが大切だという意味も理解できるでしょう。えっ、「謦咳に接する」の意味が分からない、それは辞書を引いて調べてみてください。



