ぼくは度し難いほど散文的な人間で、詩が今ひとつ理解できない(この言い方自体が散文的ですね)というのが長年コンプレックスになっています。雑談していても、ついオチをつけたくなるという悪い癖があるのですが、昔、なんでもオチをつけるのはどうですかねとたしなめられたこともあります。それでも直らないんですから、諦めるより仕方ないんでしょう。詩に深く入り込めなかったし、詩の方も受け入れるのを嫌がっている気配があったのは、たぶんこの度し難い散文的性格のせいなのだろうと思って、索然たる思いにとらえられます。それでも、たとえ人から見て噴飯ものであっても、長い間生きてきたせいで心に残っている詩人が何人かいます。
少年時代に読んで、その言葉の響きに圧倒されたのが北原白秋の詩と上田敏の訳詩集でした。たとえば、白秋の「邪宗門」(『北原白秋詩集』新潮文庫)の冒頭に出てくる作品の「邪宗門秘曲」がそうです。
われは思ふ、末世(まつせ)の邪宗(じゃしゅう)、切支丹(きりしたん)でうすの魔法。
黒船(くろふね)の加比丹(かぴたん)を、紅毛(こうもう)の不可思議国(ふかしぎこく)を、
色赤きびいどろを、匂(にほひ)鋭(と)きあんじゃべいいる、
南蛮(なんばん)の桟留縞(さんとめじま)を、はた、阿刺吉(あらき)・珍陀(ちんた)の酒を。
目見(まみ)青きドミニカびと陀羅尼(はだらに)誦(ず)し夢にも語る
禁制の宗門神(しゅうもんしん)を、あるはまた、血に染む聖磔(クルス)、
芥子粒(けしつぶ)を林檎(りんご)のごとく見すという欺罔(けれん)の器(うつは)、
波羅葦僧(はらいそ)の空をも覗(<





