2008年度 入学式にて

神戸市外国語大学学長
木村 榮一

足もとや机の上に乱雑に積み上げてある本がどうにもならないほどたまってくると、本棚を整理して空いたところに詰めるのですが、そうして片付けをしていると長年忘れたままになっていた本がひょっこり出てくることがあります。旧友に出会ったような懐かしさとうれしさが同時にこみ上げてくるのですが、先日もそうして整理していたら、田村隆一の詩集(『詩集1946~1976.田村隆一』河出書房新社)が出てきて、思わず手にとって懐かしく読んでしまいました。大正12年、つまり1923年生まれの田村隆一は、戦時下、戦後を生き抜いた詩人ですが、それだけに彼の詩には死が色濃く影を落としています。簡潔でありながら鮮烈なイメージを喚起し、しかもどこかつん抜けたようなユーモアをたたえた彼の詩はぼくの大好きな作品ですので、以下に少し紹介してみましょう。

一篇の詩が生まれるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
見よ、
四千の日と夜の空から
一羽の小鳥のふるえる舌がほしいばかりに、
四千の夜の沈黙と四千の日の逆光線を
われわれは射殺した
・・・・・・
一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない(『四千の日と夜』)

 

詩作という行為が「一篇の詩が生まれるためには」と「一篇の詩を生むためには」の対比の中で語られているのがとても意味深いですね。いとしいものを救う唯一の手段が「殺す」ことであるという一節にはぎょっとさせられますが、むろんこれは精神的な意味で使われている言葉で、「殺す」という言葉を実際にナイフや銃を持って人を傷つけ、殺害するという意味にとるべきでないことは言うまでもありません。対象を深く深く愛し、それゆえにまた激しく憎む。そのときはじめて、「殺す」という意味が執着しながらも禅宗で言うところの「放下(ほうげ)」、すなわち心身ともに一切を「捨て去る」ことと読み替えることができるでしょうし、詩人もそのことを伝えようとしたのではないだろうかとぼくは思っています。

もう一篇紹介しておきましょう。これはぼくのいちばんお気に入りの詩です。

麦の秋がおわったと思ったら
人間の世界は夏になった
まっすぐに見えていた道も
ものすごい緑の繁殖で
見えなくなってしまった

見えないものを見るのが
詩人の仕事なら
人間の夏は
群小詩人にとって地獄の季節だ
麦わら帽子をかぶって

痩せた男が村のあぜ道を走って行く
美しい詩のなかには
毒蛇がしかけてあるというから
きっとあの男も蛇にかまれないように
村の小宇宙を飛んでいるのだ(『新年の手紙』)

「見えないものを見るのが/詩人の仕事なら・・・・・・・」以下の詩行が実に印象的ですね。

もう一篇。こちらも独特のユーモアがあっていいですよ。

神は
たった六日間で
ぼくらの世界を創ってしまったというのだから
居心地の悪いのも無理はない
おまけに気まぐれで神経質な神は
七日目にその手を休めてしまったのだから
かわりにぼくたちは働かなければならないのさ

詩の解釈はいろいろありえます。一人一人が一篇、一篇の詩からそれぞれに違った意味、あるいはイメージを汲み取っていいのですから、分からないと投げないで、自分の解釈、イメージを大切になさってください。メキシコの詩人で、ノーベル文学賞を受賞したオクタビオ・パスという人は、詩は一人一人の読者の読み方次第で変化する。その意味で詩の解釈は無限であっていい、詩人はそのことをどこかで意識しながら詩作を行うものだし、作品が生まれてそれが詩人の手から離れた瞬間から、それは読者のものなのであるという意味のことを言っていますね。