青森のヤシャガシマに生まれた狗塚牛一郎、羊二郎、カナリアの三人の兄弟、それに祖母のらいてう(らいちょう)を軸に物語が展開して行きます。一族に伝わる古文書の中に殺人拳の解説書があり、それを牛一郎は独学で体得します。弟の羊二郎を連れて家をでた牛一郎は東北六県、すなわち青森秋田岩手山形宮城福島を巡ることになるのですが、ひょんなことから殺人拳を使ったために追われる身となり、東北六県をさまようことになります。これが一方でラーメン紀行にもなっていて楽しませてくれます。また。鳥居という結界を基点にして異次元の世界の扉が開かれますし、祖母の回想や古伝の殺人拳の由来を通して歴史の扉が開かれて、不可思議な世界が読者の前に現出します。しかも室町時代から戦国時代、明治を経て現代につながる人と歴史がしっかりと書き込まれています。
東北六県というのは東京、京都、あるいは日本全体にとって裏鬼門に当たります。そこの空間軸と時間軸が鳥居を通してワープし、異次元の世界が開かれるのですが、これが読者の想像力を掻き立て、時に挑発し、時に混乱させます。
『聖家族』に限らず、古川日出男の文体は腹の底に響くような重低音と軽やかさが組み合わされたふしぎなリズムを備えていますが、同時にこの文体は一箇所に止まることもなければ遅滞することもなく、ひたすら疾駆します。かつて『紫苑物語』、『狂風記』、『六道遊行』などの著者として知られる石川淳が疾駆する文体を駆使すると評されたことがありますが、古川日出男の文体もまたハードロック風の疾駆する文体を言えるかもしれません。
この作品の冒頭に旧約聖書に出てくるイエス・キリストの系譜がかなり長く引用されているのに気づかれるはずです。これがおそらくは狗塚一族の系譜への暗示となっているのでしょう。つまり、一族の血が脈々と受け継がれているということを暗示しています。そのことは、たとえば作品のあちこちで歴史の表舞台、あるいは裏舞台に登場する一族の者たちへの言及からも読み取れます。加えて、作中には胎児を育む《子宮》の記述が何度も出てきますが、この二つを考え合わせると、直線的、継起的な歴史的時間の否定がその背後に秘められていることに気づかれるでしょう。つまり、『聖家族』は輪廻転生の物語であり、それを壮大かつエネルギッシュな語りのうちに具現したみごとな作品なのです。先にこの小説では時間、空間が通常とは違うという意味のことを述べましたが、宗教学者のミルチャ・エリアーデは次のように言っています。
「空間と同様に、宗教的人間にとっては時間も均質恒常ではない。一方には聖なる時の期間、祭りの時(大部分は周期的な祭である)があり、他方には俗なる時、つまり宗教的な意味のない出来事が行われる通常の時間持続がある。これら二種類の時間の間にはもちろん連続の断絶があるが、宗教的人間は祭儀の助けをかりて通常の時間持続から聖なる時間へと<移行>する。
これら二種類の時間のあいだにはただちに目を惹く一つの本質的相違がある。聖なる時間は本質的に逆転可能である。それは本来、再現された神話の原時間である。・・・・・・聖なる時間はそれ故、幾度でも限りなく繰り返すことが可能である。」(『聖と俗』法政大学出版局。風間敏夫訳)
『聖家族』が羊二郎の閉じ込められている死刑囚の独房にはじまり、そこで終わるのはけっして偶然ではありません。参考までに、この作品の最後の一節を以下に引いておきましょう。
「部屋は空っぽになる。んだげど、お前(め)らの子宮だげで無(ね)ぞ。もぬけの殻になる部屋はもう一つ、あったね。ほら、いっしょに。同時に。時間を超えているからいつだって同時に。わずか三畳あまりの広さしかない部屋があったね。この世の中心、六県のハブが。無人のそこに死はない。もちろんないよ。」
古川日出男がすさまじいパワーで物語っているこの小説は実はその背後に、神話的な性格がひっそりと忍ばせてあったんですね。その意味で、この小説はジョイス、フォークナー、あるいはガルシア=マルケスが試みた現代文学に神話的な世界をよみがえらせるという意図を秘めた野心作と言えるかもしれません。いかがです、読みたくなるでしょう。
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