2008年度卒業式にて

2008年度卒業式にて

勉強することを「学ぶ」といいますが、その語源は「まねぶ」、つまり「真似る」、「真似をする」ことだそうです。つまり、なにかを学ぶというのは、まず真似ること、模倣することからはじめるという意味なのですが、とりわけ外国語の習得には、この「まねぶ」ことが何よりも大切であることは言うまでもありません。

何かを「まねぶ」、学ぼうとすれば、手本が必要になります。それが先生というわけですが、中国の古い諺に「三年勤(つと)め学ばんよりは三年師を選ぶべし」というのがあります。つまり、三年間一生懸命勉強するよりも、三年間師を探し求めるほうが大切だという意味なのですが、ここに言う「師」というのは、「人生の師」、「師と仰ぐ」といった言葉からもうかがえるように、かなり重い意味を持っています。というのも、師というのは弟子が自らの手本にふさわしい人として選ぶもので、知識や技術に優れているだけでなく、人格的にも尊敬、敬愛できる人でなければなりません。つまり、先生は学校へ行けば見つかりますが、師となる人はどこにでもいるわけではないのです。

師というのは弟子から見てそれにふさわしい人のことを言うわけですから、「あの方は私の師です」という言い方はいいのですが、「私は君の師だ」というとなんともおかしなことになります。というのも、弟子に当たる人がその人を師にふさわしいと思っていなければ、とんだお笑い種になるからです。その意味でも、師というのは中々厳しい言葉ですね。

「師の謦咳に接する」という古い言葉もあります。謦咳というのは咳払いのことですが、常日ごろ咳が届くほど近い距離にいて尊敬する方に接し、話をうかがうという意味です。師と仰げる人の謦咳に接するためには、なによりもまず師に出会わなければなりませんが、これが中々むずかしい。たとえすぐれた方が身近にいたとしても相性が悪ければどうしようもありませんし、運が悪いとそういう人に出会うことができないでしょう。また、こちらに人を見る目がなければ、気づかずに通り過ぎてしまいます。それに、人間、欲があると心だけでなく、目も曇りますから、まず欲を捨てて人をよく見、相手の言葉に真摯に耳を傾ける必要があります。

外国語の「学びーまねび」を実践する中で、もしあなた方が「師」に当たるような人に出会うことができたら、きっと人生はとても豊かなものになるでしょう。

さて、先ほど師を見つけるには出会いがなければならず、これがなかなかむずかしいと言いましたが、もしどうしても見つからないようでしたら、本という馬に乗って時空の旅をして探してみてください。

Gustave Flaubert

Gustave Flaubert

以前にも書いたと思いますが、十九世紀のフランスを代表する作家の一人フロベールはいつかセルバンテスの『ドン・キホーテ』のような作品を書きたいと考えていました。彼の小説『ボヴァリー夫人』に登場するマダム・ボヴァリーはルーアンという田舎町に住んでいていつか華やかな社交界のあるパリに出たいと夢見ていました。彼女は憧れのパリがある方角の空を見詰めては夢を織り続けたのですが、そのボヴァリーのうちにセルバンテスに憧れていたフロベールの姿を重ね合わせることができるかもしれません。いつか『ドン・キホーテ』のような小説を書きたいと夢見ていたフロベールは、晩年ついに決心して自分なりの『ドン・キホーテ』に取り掛かることにします。そのために完璧主義者の彼は千五百冊以上の本を読み、膨大な量のメモを取り執筆にかかりますが、第一部が完成したところで疲労のあまりついに脳溢血で倒れ、不帰の人となります。そうして残されたのが『ブヴァールとペキュシェ』という作品なのですが、これは岩波文庫で読むことができますので、のぞいて見られるといいでしょう。もっともこのフロベール版『ドン・キホーテ』は現代の読者にとってはあまり面白いといえないかもしれません。

日記を見ると、カフカもまた生涯『ドン・キホーテ』のような作品を書きたいと夢見ていたようですが、ついにカフカ版『ドン・キホーテ』は完成しませんでした。

Poster of Jules Massenet's opera Don Quichotte

Poster of
Jules Massenet's
opera Don Quichotte

『ドン・キホーテ』の主人公は本名をキハーナともケサーダとも、あるいはケハーナとよばれていたのですが、遍歴の騎士として旅立つにあたって自らドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ Don Quijote de la Mancha と名乗ることにします。また、やせ馬にもロシナンテという立派な名前をつけ、田舎娘にもドゥルシネーア・デル・トボーソという名前をつけて、自らの想い姫にします。こうして田舎町に住む郷士は騎士に変身するのです。ここでは名づけるという行為によって主人公が生まれ変わることになります。一方、カフカの『変身』の主人公は朝目が覚めてみると、なんと毒虫に変身しています。同じ変身でも、こちらのほうはなんともやりきれないほど辛く切ないものがありますが、それでも毒虫になった主人公の家族へのひたむきな思いは読者の心を打たずにはおきません。このひたむきさという点ではドン・キホーテとどこか通じるところがあるようにも思えますね。

同じカフカの書いた『城』という小説では、測量士のKが伯爵から依頼されて城の測量に取り掛かろうとするのですが、いろいろな障害があってふもとの村から城までどうしてもたどり着くことができずさ迷い続けます。ついに徒労に終わる主人公のこの苦難の旅は、ドン・キホーテの遍歴放浪とどこか似たところがあるようにも思えます。

フロベール、カフカにとってはセルバンテスがきっと師だったのでしょうね。その師に憧れ、師に近づきたいと思ってひたすら執筆に励んだのでしょう。そういえば、ラテンアメリカの作家たちにもそれぞれ師に当たる人がいるようです。たとえば、ボルヘスにはショーペンハウアーが、コルタサルにはポーが、ガルシア=マルケスにはフォークナーとヘミングウェイが、バルガス=リョサにはフロベールが、ドノソにはヘンリー・ジェイムスが・・・・・といった具合です。師を目標にしてひたすら近づこうと勤めることで、人はいつの間にか大きく成長するのかもしれません。

最後におまけをつけておきますと、師への愛と尊敬をテーマにした川上弘美の『センセイの鞄』(新潮文庫)もぜひお読みください。