2009年度 外大祭にて

 ポール・オースターといえば、今やアメリカだけでなく世界的に著名な作家として知られています。気難しくて癖の強いスペインの作家エンリーケ・ビラ=マタスも絶賛していますし、サンティアーゴ・パハーレスをはじめとする若いスペインの作家たちもオースターには注目しています。新しい文学の旗手として知られる彼の新作には世界中からつねに熱い視線が送られているのですが、そんな彼の第一作目にあたる小説『ガラスの町』(新潮社)が柴田元幸さんの名訳で出ました。信じられない話ですが、解説によるとこの小説は一九八五年に出版されるまで十七の出版社から断られたそうです。理由はどうやら探偵小説の枠組みを使っているのに、その基本法則である謎解きも、人物の言動の一貫性も欠いていることにあったようです。

 この小説の主人公はクインという人物で、ウィリアム・ウィルソンというペンネーム(これは御存知かと思いますが、ポーの二重人格を描いた有名な短編の主人公と同じ名前です。作者は当然それを意識した上で使っているのでしょうね)で、ワークという探偵を主人公にした小説を毎年一冊書いて、それで生計を立てています。クインはエージェントを通して原稿を渡し、そのエージェントとは郵便でやり取りして正体を明かしておらず、印税、原稿料などもエージェントを通して受け取るという秘密主義を守っています。ですから、写真や略歴も一切分からないようにしています。

 ある日、そのクインの元に間違い電話がかかってきます。相手は「そちらはポール・オースター探偵事務所ですか」と尋ねるのですが、クインはにべもなく違いますといって電話を切ります。次の日の夜にまた同じ人から電話があり、オースターさんですかと尋ねてきます。なんとなく面白そうだと考えたクインは、「私がオースターです」答えるのですが、そこから彼は探偵としてまだ起こっていないけれども、起こる可能性のある事件にかかわってゆくことになります。

 電話をかけてきたのはヴァージニア・スティルマンという女性で、会って話を聞いてみると、彼女の夫のピーターは幼い頃、父親(この人は著名な学者だったのですが、精神に異常をきたしたそうですが)、その父親に長年部屋に閉じ込められていました。その後、ピーターは外の世界に出て、現在はヴァージニアと結婚して一緒に暮らしています。しかし、父親が精神病院を退院して、この町にやってくるという情報をつかんで、ふたたびピーターに危害に加えるのではないかと不安でしかたないと訴えます。

 彼女から若い頃のスティルマンの写真をもらったクインは、言われたとおり駅で彼が来るのを待ちうけ、その人物と思われる老人を見つけて尾行します。老人が宿泊しているホテルを見張り、彼の後をつけてまわるのですが、そのうちいっそのこと近づきになっていろいろ話を聞いてみるほうがいいだろうと考えて、機会を見て話しかけます。その一方で図書館にも足を運んで、スティルマンの著作にも目を通すのですが、聖書に出てくるバベルの図書館の話から説き起こされる彼の説はとっぴなところがありますが、中々面白いですね。

 クインは彼が宿泊しているホテルを見張っていたのですが、ある日男はホテルから姿を消してしまいます。行方が分からず困り果てたクインは、藁にもすがる思いで電話帳を繰り、そもそもの発端になった間違い電話の主であるポール・オースター探偵事務所を探します。探偵事務所はなかったのですが、ポール・オースターの名前が電話帳に出ていたので、そこに電話を入れて会う約束取り付けます。実際に会ってみると、探偵ではなく作家だったのですが、作者と同名の人物を登場させているわけですから、このあたりの仕掛けも面白いですね。

Sancho Panza; Illustrated by Gustave Dore
Sancho Panza

 この二人のやり取りがまた楽しいのですが、とりわけドン・キホーテの作者に関するオースターの奇説には思わず笑ってしまいました。あまり面白いので、以下に紹介しておきましょう。セルバンテスの書いた小説『ドン・キホーテ』の中に、この小説の作者は実はシーデ・ハメーテ・ベネンヘーリという人物で、もともとはアラビア語で書かれていたのを、私(セルバンテス)が人を雇ってスペイン語に訳させたのだと書いてあります。そのシーデ・ハメーテ・ベネンヘーリなる人物がその後小説の中に一度も登場してこないことを取り上げて、この人物は実は四人の人物の組み合わせではないかというのです。そして、ドン・キホーテの遭遇するできごとを目撃したのがほかでもないサンチョ・パンサなのですが、サンチョは言葉を操る才に恵まれていますが、読み書きができません。したがって、このサンチョが物語を口述したわけです。相手は作中に出てくる司祭と床屋で、彼らがスペイン語でしかるべき文学的体裁を整え、その原稿をサラマンカの得業士サンソン・カラスコに渡し、それをサンソン・カラスコがアラビア語に訳した。そして、そのアラビア語の翻訳をセルバンテスがトレドで発見し、もう一度スペイン語に訳しなおさせたのが『ドン・キホーテ』だというわけです。

 クインが「なるほど、面白い」と言うと、オースターはこう続けます。

 「でしょう。ですがまだもうひとひねりあるんです。私の見解では、ドン・キホーテは本当に狂ってはいませんでした。狂人のふりをしていただけです。それどころか、すべては彼が陰で操っていたのです。いいですか、作品中ずっと、ドン・キホーテは後世という問題にこだわっています。何度も何度も、実録者が自分の冒険を正確に記録してくれるだろうか、と気にしています。これはつまり、ドン・キホーテが事情を理解していたことの表われです。実録者が存在することを彼はあらかじめ知っていたんです。そしてその実録者とは誰か。これはもう、忠実なる従士サンチョ・パンサ以外にありえません。ドン・キホーテはまさにこの目的のために彼を選んだのです。同じように、ほかの三人を選んで、役を割り当てたのも彼でした。ベネンヘーリ四人組を作り上げたのはドン・キホーテだったのです。作者たちを選んだだけでなく、アラビア語の原稿をスペイン語に訳し戻したのもおそらく彼でした。ドン・キホーテならやりかねません。あれほど変装の術に()けた男にとって、肌を黒くしムーア人の衣装をまとうくらい訳なかったはずです。トレドの市場での、その情景を想像するのは楽しいですよ。ドン・キホーテの物語を解読させる仕事に、セルバンテスがドン・キホーテその人を雇う。実に絵になる構図です」

 この後もう少しオースターの説が続くのですが、これは一読の価値がありますので、ぜひお目通しください。

 さて、クインのほうはどうなるんでしょう。彼は結局オースターから欲しい情報を得ることができなかったのですが、その後もスティルマンの捜索を続けます。スティルマンは自殺して、すでにこの世にいなかったのですが、彼はそうとも知らずに絶望的な捜索をつづけます。この作品の終わりのほうは要約のしようがないので、どうかお読みください。そして、できれば『ドン・キホーテ』も。

 ポール・オースターの作品はこのほかにも『孤独の発明』、『ムーン・パレス』、『偶然の音楽』、『リヴァイアサン』、『ティンブクトゥ』、『幻影の書』などたくさん出ていますので、ぜひお読みください。

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