トップページ > 学長だより > 風の便りII > 風の便りII (第37回)
あけましておめでとうございます。今年は年賀状に、一休禅師のものと伝わる漢詩を引用しましたので、紹介しておきましょう。
人間識是自平安
山僧活計茶三畝
漁父生涯竹一竿
(以下のことが分かれば、人は心安らかに生きていけます。山住の僧なら茶畑が三畝、漁師なら竹竿一本あればよろしい。)
人間というのは生きてゆくのにそれほど多くのものはいらないんですね。何か本当に好きなものがあって、それで自足していれば、余計なものは必要ないのでしょう。ぼくは翻訳が好きで、訳したい本が見つかると、それだけでなんとか生きていけます。ですから、翻訳について書かれた本にも興味があるのでのぞいてみるのですが、中々ウーンとうなるようなものがないのがちょっと寂しいですね。そんな中で、以前に紹介した村上春樹・柴田元幸の『翻訳夜話』と『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(ともに文春新書)は出色でした。
昨年末に出た垂水雄二の『悩ましい翻訳語-科学用語の由来と誤訳』(八坂書房)も翻訳について書かれたとても勉強になるいい本で、久々にいいものに出会えたと喜んでいます。こちらの勉強不足のせいで読んでいて背筋の寒くなる思いをすることもありますが、教えられるところ大で、大変興味深く読ませていただきました。
垂水雄二はリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(共訳、紀伊國屋書店)、『進化の存在証明』(早川書房)など数多くの訳書をはじめ、自身もたくさんの著作を出しておられる方で、訳文も文章力も簡潔、明解ですばらしいので、本屋さんでこの人の名前の本、訳書を見かけたらぜひお買い求めください。
まず、『悩ましい翻訳語』の「はじめに」に出てくる冒頭の一節を引用してみましょう。
いい翻訳者の条件はまず語学力で、これは原語(主として英語)と日本語の両方に言える。だが、もともと生物学が専門である私に語学のウンチクを傾ける資格はないし、翻訳一般についてどうこう言えるほどの能力もない。しかし、専門書の翻訳に関しては、もう一つ条件がある。それは書かれている内容についての理解で、ことに自然科学書の翻訳の場合には、必須の条件になる。
どんな英語の達人でも、物理学の基礎知識がなければ量子力学の本を翻訳することはできない。分子生物学のイロハを知らなければ、遺伝学書の翻訳はできない。そうした知識の欠如がもっとも端的に表れるのが、訳語の選択である。それについては、私にも少しばかり、言うべきことがある。
当然のことを言っておられるのですが、読み方によっては中々に厳しい言葉でもありますね。文学書の翻訳でも、一部をパラフレーズすればそのまま通用しそうです。たとえば、書かれている内容の理解というくだりがそうで、小説の翻訳の場合だとストーリーの流れ、人物像、彼らの人間関係、その時々の人物の心や感情の動きなどがそれに当たりますし、そこをうまくつかまえないとわけが分からなくなります。
「翻訳者の知識の欠如がもっとも端的に表われるのが訳語の選択である」として、本文に入ってゆくのですが、著者が具体例を挙げている箇所を以下に紹介しておきましょう。
たとえば、African wild dog という言葉あります。昔に出た翻訳書の副題に「アフリカ野生犬の物語」とあったそうですが、これは野生犬ではなく、和名をリカオンというオオカミの一種だそうです。垂水雄二はそこからさらに話を進めて語源にさかのぼり、ギリシア神話に由来する単語であることを説明してくれるのですが、こういうのを読むとちょっと賢くなった気がします。また、Guinea pig という単語がありますが、これはマーモットのことなのにいまだに「ギニア豚」と訳している本があとをたたないとのことです。
![]() African wild dog ©Dano |
![]() Peru Guinea Pig |
![]() cf. Guinea Hog ©Drew Avery |
聖書に出てくる locust イナゴは、じつはわれわれの知っているイナゴではなく、大量発生して作物に甚大な被害を与えるサバクトビバッタのことなんですね。そうそう、イソップの寓話で有名な「アリとキリギリス」はもともと「セミとアリたち」だったそうです。ところが北ヨーロッパにはセミがいないので、ラテン語から翻訳する時に「キリギリス」や「コオロギ」に置き換えられたんだそうです。なるほどと感心しますね。
ピーターラビットやアリスをふしぎの国へ導くウサギは何だと思います。絵に描かれているのは耳の長いウサギが多いのですが、あれは hare と rabbit のどちらだと思います。耳の長いのが hare(ノウサギ)で、これは単独性で、昼間はくぼ地などに身を潜めています。一方、耳の短い rabbit (アナウサギ)のほうは穴を掘って集団生活をし、社交性があります。すると、集団で暮らしているピーターラビットとアリスを地下のふしぎの国へ案内するウサギはともに耳の短いアナウサギということになりますね。ですから、ピーターラビットのキャラクター・グッズを買う時は、耳をよく見、アリスの絵本でもウサギの耳に注目してください。ただ、耳はやはり長いほうがかわいく見えるので、分かっていてそんな風に描いているとも考えられるので、あまり目くじらを立てないほうがいいと思います。
![]() Locust cloud over Juncus maritimus at Imililik, Western Sahara (April, 1944). ©JViejo from Eugenio Morales Agacino's Photographic Archive at Universidad Autonoma de Madrid |
![]() European hare ©Anneli Salo |
![]() Cottontail Rabbit |
そのほか、「博物学」、「発火」、「自然選択」、「天変地異説」などいろいろと面白くて考えさせられる項目があって、とてもためになります。その中の「利己的な遺伝子」という項目は、利己的な遺伝子という言葉に関して一般にかなり誤解があるようなので、ぜひお読みください。もともと進化論の基本的な考えは、個体が利己的に振舞うことによって進化が起こると考えられていたのに対して、利己的に振舞うのは個体ではなく遺伝子であることを強調したのがドーキンスなのですが、そのあたりの誤解をきちんと解きつつ、これは「浮気を正当化するような理論ではけっしてないのである」と厳しいことをいっています。
また、「谷間の百合」を読むと、これはどうやらドイツスズランのことらしいのですが(といってもよく知らないんですが)、そこからバルザックの同名の小説に話が及び、この場合はユリで間違いないそうです。いろいろな辞書はもちろんのこと、さまざまな文献資料、研究書に当たって確認した上で、次々に展開されてゆく訳語談義はぼくたちに知の楽しみと喜びを与えてくれます。
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