東京外国語大学 亀山学長の講演前

 本との出会いはその人の生き方や人生に大きな影響を与えることがあります。振り返ってみるとぼくの場合、中学生の時に読んだドストエフスキーの『罪と罰』、それに教師になってから出会ったフリオ・コルタサルの『石蹴り遊び』とガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』がそれに当たるようです。『罪と罰』を読んだ時は、大きな衝撃を受けてしばらくは何も手につかず、文学というのは凄いものだと感じ入った記憶があります。『石蹴り遊び』と『百年の孤独』もぼくにとっては大変大きな意味を持っていました。

 大学を卒業して五、六年の間、二十世紀前半のスペイン文学を中心に読んでいたのですが、自分の探し求めているものが見当たらないように思えて、十六、七世紀の古典文学に方向転換しようかと迷いはじめました。そんな時にたまたま大学へ遊びに来ていた若いメキシコ人に出会って、日本語を教えてもらえないかと頼まれたのです。

 そのメキシコ人は禅宗を学ぶために来日していたので、週に二、三回彼が宿泊している僧房を訪れて日本語を教えたのですが、適当なテキストもないままはじめたものですから、いつも雑談で終わっていました。ある日、君は何を研究しているんだと尋ねられたので、実は迷っているんだと答えたところ、だったら、ラテンアメリカ文学をやるといい、今すばらしい作家たちが出てきている、たとえばこれがそうだ、そう言いながらナップザックから真っ黒な装丁の六百ページ以上ある分厚い本を取り出してきたのです。

 さすがにその本を見た時はたじたじとなって、思わず、いや、いいよ、たぶん読めそうもないからといって断りました。しかし彼は強引にその本を押し付けて、とにかくだまされたと思って読んでみろと言ってきかなかったのです。それがコルタサルの『石蹴り遊び』だったのですが、その本を家にもって帰って多少不安を抱きながら読みはじめてみると、面白くて一気に作品世界に引き込まれました。とりわけ、あの小説の第一行目に出てくる「ラ・マーガに会えるだろうか?」という一節は、当時迷いに迷っていたぼくにとっては一条の光のように思えました。今思えば、あと数年早くても遅くても、たぶんあそこまでのめりこむことはなかったでしょう。

『石蹴り遊び』に出会ってコルタサルを研究しようと決めて、ほかの作品も取り寄せて読みはじめたのですが、ちょうどその頃にガブリエル・ガルシア=マルケスの書いた『百年の孤独』というすごい小説があると聞いて、こちらもすぐに読んだのですが、やはり同じように衝撃を受けました。以後、迷うことなくラテンアメリカの現代文学をやってみよう決めたのです。

 考えてみると、今挙げた二作品は閉塞状況にあった二十世紀の小説に新しい地平を切り開いた作品といえるかもしれません。というのも、この二つの小説は形式面でも、文体面でもまったく性格を異にしているのに、意外なところに共通点があって、それがとても重要な意味を持っているからです。というのも、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』は後で触れるように物語としての面白さに加えて、神話的で叙事詩的な性格を備えていて、それがこの作品の大きな魅力になっているからです。一方、『石蹴り遊び』のほうは斬新な手法を駆使した実験小説なのですが、その背後に通過儀礼を通して絶対を探求するというテーマが隠されています。そのことを何よりもよく物語っているのがタイトルです。

 石蹴り遊びというのは、子供が石を蹴って《地》から《天》に昇ってゆく遊びです。石を蹴るのに失敗したらマス目を戻らなくてはなりませんが、作者があの作品の冒頭につけている《指定表》が、その運動を象徴的な形で示しています。この遊びが通過儀礼の一形式であることは言うまでもありません。読者は章番号というマス目を行きつ戻りつしながら進んでゆき、第一部の終わりで主人公がパリからブエノスアイレスに戻るところで、振り出しに戻ります。そこからふたたびマス目を進んで《天》に昇ってゆくのですが、第二部の終わりで主人公が病院の窓から転落するという事件が待ち受けています。彼の死ですべてが終わったかというと、実は《指定表》の最後に循環する数字が記されています。そこを読むと、主人公はまだ死んでいないのです。つまり、あの転落は飛翔であり、覚醒でもあるということなのです。その意味でこの小説は、神話的な性格を備えた通過儀礼が背後に隠されていると言ってもいいでしょう。

 一方、ガブリエル・ガルシア=マルケスといえば、ほとんどの人が『百年の孤独』を思い浮かべ、そこから特異なカリブ的幻想世界を描いた作家というイメージを抱きがちです。しかし、彼の作品を見渡してみると、必ずしもそうとは言い切れません。独立戦争の英雄シモン・ボリーバルを主人公にした『迷宮の将軍』は歴史小説と言ってもいいでしょう。また、『予告された殺人の記録』はコロンビアの田舎町で起こった不幸な殺人事件に題材をとっていますし、『コレラの時代の愛』は十九世紀末から二十世紀にかけての時代を背景に波乱に満ちた愛の物語をレアリスティックに描き出した作品です。

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Nun capitel románico do século XII
by Noel Feans
CC BY 2.0

 それでもやはり、ガルシア=マルケスといえば誰もが『百年の孤独』を思い浮かべますが、彼は幼い頃に頃に聞かされた祖母の話に決定的な影響を受けてあの作品を書いたことはよく知られています。祖母の中にはスペインのガリシア人の血が流れていました。ガリシア地方というのはケルト系の人たちが数多く住んでいる土地なのですが、司馬遼太郎の『愛蘭土(アイルランド)紀行』を読むと、ケルト系の人たちが数多く住んでいるあの土地には妖精たちが今も生きているようで、『愛蘭土(アイルランド)紀行』にもそうした話が次々に出てきます。そういえば、『怪談』の作者として知られる小泉八雲もやはりアイルランドの出身で、だからあのような作品を書いたとのことです。新倉俊一の『ヨーロッパ中世人の世界』(筑摩書房)の中にも興味深い一節が出てきますので、以下に紹介しておきましょう。

 ケルト系の民話においては、人々が生きている現実世界とは別に死者の世界があること、そして、その死者の世界で人々は生きていた時と同じような暮しを営んでおり、生者の世界から偶然訪れた者の働きかけによって、再び生者の世界に復帰するのを待望していること、言いかえれば、甦りを期待している〈彼岸〉が実在していたのである。

 ケルト人の血を引く祖母は、死者や亡霊のでてくるぞっとするような話や気味の悪い話と現実にあったこととをまったく区別せず、ふだんと変わりない口調で話したそうですが、きっと彼女はケルト人特有の、妖精の棲む世界に生きていたのでしょう。そして、その影響がのちに小説家ガルシア=マルケスを生み出す上で決定的な役割を果たして、現代文学の傑作といわれる『百年の孤独』が生まれてきたのです。

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