トップページ > 学長だより > 風の便りII > 風の便りII (第39回)

先日ある方と本の話をしている時に、ところで、城山三郎の『鼠』を読まれましたか、神戸とゆかりの深い鈴木商店の話で、中々面白いですよと勧められました。城山三郎の名前を聞いたとたんに、頭の奥のほうで何かが反応しました。中学生の頃にあの作者の『総会屋錦城』という短篇集を読んだことがあり、同名の作品にとても感激した時の記憶がよみがえってきたのです。それにしても本の記憶というのは長い時間生き続けるものですね。もっとも、年をとると新しいことより、古い昔のことが鮮明に思い出されるとよく言われるので、そのせいかもしれません。ただ、若い時にどっさり本を読んでおくと、じいさんになっても記憶の中にいろいろな人物が生きていて、中々いいものですよ。
そこであの短篇集をもう一度読み返してみようと思い、書店をのぞいてみたのですが、見当たらなかったので図書館から借り出して読んでみました。すると、昔の感動と一緒に当時の記憶までがよみがえってきました.あの時は父親にそれとなく、株屋というのはどういう仕事をするのか尋ねたように思います。いくらなんでも、危ない橋を渡る総会屋になりたいなどと言うわけにはいきませんからね。ですが、当時のぼくには錦城がなんともかっこよく見えたものですから、ひそかにあんな風になれればなあ、と憧れましたね。
(実は、その前の小学生の頃には落語家になりたいと真剣に考えたことがあります。しかし、言っても反対されるだろうから、家出して東京へ行き、当時名人と言われた三遊亭円生に弟子入りしようと考えました。けれども、何とか東京駅までたどり着けたとしても、円生の家がどこにあるかわからなかったものですから、計画はそこであえなく頓挫してしまいました。しかし、あの時はかなり真剣に考えて、計画を練りましたね。)
ともあれ、父に株屋ってどんなことをするのと尋ねると、困ったような顔をして、「わしも昔株屋をしたことがあるが、あれはよしたほうがいい。株というのは売りでなく、買いで儲けなければならないが、最後は決まって資金繰りがつかなくなって破産することが多い、で、挙句の果てに首をくくる羽目になる」と、まるで一人前の大人に説明するように詳しく教えてくれたのですが、子供なりになるほどと納得しました。きちんと話すと子供でもある程度理解できるものなのですね。その後父は、同じ金儲けをするのなら、自分が儲けるなどとけちなことをいわずに、商社マンになって世界を相手に商売をして、日本を豊かにしてみたらどうだと言ったものですから、性単純なぼくは、よし、それなら将来は商社マンになろうと決心したのです。それが今ではこういう仕事をしているのですから、人生というのはほんとに分からないものです。
さて、肝心の『鼠』に話を戻しますと、大正七年と言いますから、一九一八年になりますが、その頃一介の商店でしかなかった鈴木商店を戦前、戦後の時代に三井・三菱と並ぶ大商社に押し上げた人物金子直吉(風采の上がらない彼はいつも黒の詰襟の服を着て、忙しく走り回っているところから鼠と呼ばれるようになったそうですが、同時に「白鼠」と言えば商店を支える忠実な大番頭を指すので、その二つがかけられたタイトルのようです)を中心に据えて、あの会社で働く男たちの壮絶な戦いを描いたものです。鈴木商店が大きくなるにつれて、大阪朝日新聞から悪意のこもった執拗な攻撃を受け、さらに三井財閥が影で策謀を練った(らしい)こともあって、ついにあの商店は焼き討ちにあい、さらに金融機関が手を引いたことも重なって崩壊してしまいます。金子を中心とする大勢の社員は、会社のために私心なく、文字通り粉骨砕身の働きぶりで最後まで戦い抜くのですが、金子直吉を中心とする彼らの壮絶な生き様は、読むものに圧倒的な力で迫ってきます。読後、一抹のさみしさを感じると同時に、一種の爽快感を覚えるはずです。城山三郎の作品はどれも圧倒的な迫力で迫ってきますね。
次は、まったく毛色を異にする本です。内田樹の『日本辺境論』(新潮選書)という本なのですが、著者は《辺境》をキーワードにして日本人と日本文化の特異な性格を読み解いています。随所に卓見が見られるエッセイで、読み進むうちに目からうろこが落ちるような思いがするはずですし、自虐的なところのある日本人のものの考え方が《辺境》をキーワードにすると、実に明解に読み解けて、なるほどと思わず膝をたたくことでしょう。中でも、落語の「こんにゃく問答」を取り上げた個所や『水戸黄門』の話などは秀逸です。もっとも今の若い人は落語など聞かないでしょうし、ましてやテレビで『水戸黄門』など見るわけはないでしょうから(昔は映画にもなったのですがね)、そのあたりは世代的な問題で、ぼくの手には負えません。まさか、落語を一生懸命聞きなさいというわけにも、テレビの『水戸黄門』を見ずして日本人を語ることはできないとは言えませんからね。
以前、ある大学で教えている友人から面白い(というか、見方によれば深刻な)話を聞いたことがあります。ある日、学生が真剣な顔をしてその方のところにやってきて、「先生、スペイン語を覚えさせてください」と訴えたので、いや、それは君が努力して覚えるものであって、覚えさせるのは無理だよと答えると、「母が高い学費を払っているんだから、先生に覚えさせてもらいなさい、と言ったんです」と真顔で言ったそうですが、そういう人にはぜひこの本のIIの「辺境の「学び」は効率がいい」を読んでいただきたいものです。ここに出てくる「弟子は師が教えたつもりのないことを学ぶことができる」という言葉をしっかり身につけてください。
最後に、内田樹が自分の考えを要約すれば次のようになるといって、引用している梅棹忠夫の『文明の生態史観』の一文を又引きさせていただきます。
「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは、現に保有している文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している、一種のかげのようなものだ。本当の文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。
おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつとしてスタートした民族とのちがいであろうとおもう」
上の文章はちょっと硬い感じがしますが、これは梅棹忠夫の文章だからです。内田樹の文章は柔軟で、大変読みやすいので、どうか一度ぜひ読んでみてください。
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